Cute×癒し - 心を満たす音楽空間

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音楽、生きる、死は一直線上にある

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北海道の夏はあと2ヶ月ほど。さて、冬の準備もしなきゃ。
「音楽、生きる、死ぬは一直線上にある」

ちょっと仰々しいタイトルをつけてしまいましたが、
最近読んだ2冊の本をきっかけに、感じたこと、考えたことをまとめました。

今日は時々ぶつかる表現という問いについて。

『表現を仕事にするということ』著者/小林賢太郎

幻冬舎 2024,4,25

表現について考えた

以前はラーメンズというコンビ名で活動してた方です。


普通の漫才とは違う、おもしろいストーリーにアートが混ざったコントで、なんと言えばいいのかな?説明がむずかしいのですが、こちら側が知性をはたらかせないと、面白くありません。それは、面倒とか疲れるとかではなく、そうしたいと思わせるコントです。(クイズとマジックが混ざった感じ)

ある程度、考える時間を与えてくれるのでそれもまた楽しみです。


数年前、問題発言でテレビから退いた後は、本を書いたり、絵を描いたり、脚本家、演出家、映像制作、舞台美術など、いろいろな方面で活躍しています。

この本を読んでいくうちに、『あれ?私とすごく考え方が似ている』と思うことがいくつもあり、
2冊目の『僕がコントや演劇のために考えていること』も買って読みました。

「あぁ、私は表現者なんだな」と改めて思い、考えを整理してみました。

表現するお仕事、または興味がある人は、ぜひ読んでみてください。

特に共感した点は、大きく4つあります。

  • 認知度は最低限でよい
  • 作ることは生きること
  • 観ている人を楽しませたい
  • 作れない自分は存在してはいけない?

言葉は違っても自分と同じような考えが書いてあって、誰かと対話してるみたいで楽しい時間でした。

 

名前だけ知られることは危険

小林賢太郎さんが、テレビにあまり出ず、必要以上に名前を売らないことにとても共感しました。
「有名だからその作品を観る」のではなく、「作品がおもしろいから観たい」と思ってもらうことを大切にしているようです。

人気商売はどうしても知名度に意識がいってしまうけど、本当に作品を好きになった人が見てくれると、今まで越えられなかったものも超えられるし、突き詰めて考えることができます。

自分=人気

と思ってしまうと、意識が自分に向いて、かっこいい自分を演じる努力をする方向に行ってしまう。

行き先を間違えると、ただの勘違いになるから自分を客観的に見ることも必要です。

人はどうしても、表面的にキラキラしているものに惹かれてしまいます。
バンドワゴン効果のように、「みんながいいと言っているから自分も」という流れにのる人も多い。
しかし、そうした流れとは少し距離を置いて、自分の音楽を本当に必要としてくれる人に届けたいです。


自分の音楽が誰かの心に響くことが意味。

このテーマについては、以前のブログ記事でも少し触れていました。よかったらこちらも読んでみてください。

作ることは、生きること

私は、イベントを運営する側も、お客の側も、大元(事務所など)の諸事情を知っているから、とても現実的に考えることができます。

まず集客を考え、時には演者が商品となり、売り上げを考える。

イベントによって客層が違うから、夢がなくなるとて、いろんなことを計算します。

そのような工夫は主催する側ではごく当たり前で、私もそのあたりはよく理解しています。

しかし以下のような事があると、演者が思う本質からずれてしまう。

チケットを買った人が行けなくなり、代わりに誰かが行く。ピアノに全く関心がない人が、ピアノのコンサートに行っても、チケットが売れた事実だけで、ピアノをいいなと思ってくれたわけではありません。

仮に一時的にいいなと思ってくれても、継続してコンサートに来てくれるわけではない。

それとか、売れなくなったチケットを適当に配り、席は埋まるけれど、ファンがいないという状態にもなります。それは演者にとってすごく虚しいこと。全然嬉しくないです。

創作において、自分の音楽を好きでいてくれる人に届かなければ意味がなくなってしまう。

いい音楽を作って、誰かが豊な時間を過ごせたり、何かに気づいて希望を持ったり、優しさや懐かしさを感じてくれたり、それが表現者としてのいちばんの喜びです。

創作には、思考や準備、精神的なエネルギーが必要だけども、やめないでいられるのは、「作ること」がそのまま「生きること」で、その想いを受け取ってくれる人がいるからです。

見ている人を楽しませたい

作品に出会って、一時的に楽しくなったり、興奮したり、舞い上がる時間を過ごす。

私は捻くれ者なのか、欲深いのか、ちょっと疑ってしまいます。

それをきっかけにその人自身が変わり、前向きに生きることができる、そんなきっかけを作られたら、私の生命には意味がある。

コンサートやライブのような一体感を感じられる楽しい時間は、嫌なことも忘れる。

私もそのなんともいえない高揚感は大好きだし、演者側からしても、いい時間を作れたら楽しい。

しかしそれは外からやってくるもの。

もしかしたら、興奮が冷めて家に帰ると、またじとっと考えてしまうことになったり。それでは何の意味もなくなってしまいます。また明日から同じような日々が始まるのでは、あの楽しい時間は幻想にすぎません。

 

自分からむくむくと勇気ややる気が溢れてくれると、こちらもとてもやりがいになります。

作れない自分は、存在してはいけないのではないか?

作れない自分は、存在してはいけないのではないか?

私もまったく同じ問いを、自分に向けてきました。

私にとって、作ることは「仕事の一部」、「職業」、または「仕事的なもの」とは違って、
もっと根本的な、生きている証のようなものです。
だからもし、音楽が作れなくなったら、それは私にとって「死」を意味します。

「生きる」「音楽」「死」
その3つはまるで一直線上に並んでいる状態です。

表現者はそれぞれ、言葉は違っていても同じようなことを言っている場面に出会います。

割と、うんと若い時から同じようなことを思っている人が多いかな。

なので小手先ではできるものではないと、自分自身よく理解しています。

「完成品を素材にする」という考え方

小林賢太郎さんの本『僕がコントや演劇のために考えていること』の中に、「完成品を素材にする」という章があります。完成品であっても、それを一度材料に戻して、また新しく組み直していく。そんな視点が語られていました。
実は私も、同じことをしています。

音楽を作るとき、私もまずは最後まで形にするけど、すぐに公開することは少ないです。
いったん寝かせて、数日後にあらためて聴き直す。自分で感想を言ってみる。良いと思ったところ、やっぱりこんなのはダメだなと思ったり、その時いいなと思っても、後で聴きかえすと、納得がいかないところがあったり。

だからやり直すのはいつものことです。

最近では自分の「持ち味」と「別の要素」を掛け合わせることも意識しています。
たとえば、私はボサノバを本場ブラジル人のように演奏することはできません。

しかし「ほのぼのな世界」と掛け合わせたら、そこにしかない音楽になるかも?と作ってみたので前回のゆるディサフィナード。

まだ許せるけれど・・・時間が経ったら完全ボツになるかも。

もう一度寝かせて、今とは違う耳で聞いてみることで、また新たな可能性を知ることになります。

読み返したら、訳わかんないですね。

もう少し考えがまとまったら、執筆中の本にまとめていこうと思います。

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